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硫黄島SULPHUR ISLAND

写真館#001、硫黄島の工事記録です。ご興味のある方どうぞご覧ください。


硫黄島  ~自衛隊基地内 日照調整フィルム工事~

 1998年(だったと思うのですが…まだ法人化する前です)、東京の南約1250㎞の太平洋上に浮かぶ孤島「硫黄島」の海上自衛隊・硫黄島航空基地内、衛生隊(医務室)へ出張工事に行ってきました。
 一般の住人は現在はなく、基地とメンテをするための建設会社があるのみです。戦没者遺族の方は行く事が出来るようですが、普通の人は行けません。

 有名なポイントの綺麗な画像は、Web上に沢山あります、また「グーグル・アース」で色々見れますので、そちらをご覧ください。おそらくそれらに載っていない・載らないであろう写真を中心にご紹介いたします。
 作業の合間に「写るんです」で撮った物でございます、大した画像はございませんが、お付き合いください。



 入間の飛行場から輸送機で3時間半位と記憶しています。進行方向に対し横向きで右舷左舷の壁際に向い合せで座り、背もたれはネット(たしか赤)、ランボーみたい。人間が両サイドで中央には荷物がどっさり積まれます。
 しかし、プロペラの輸送機ってのはうるさいんですね~、慣れている方は耳栓を持ってらっしゃいました。もし乗る機会が有る方は「耳栓」をお勧めします。あと風があったりするとガンガン揺れますのでお覚悟を。

 島に近づいて高度を下げだすとしばらくして、硫黄の臭いがしてきます、旅客機のような見やすい窓はありませんから(たしか数個の窓があるのみ)「におい」で到着が近い事を実感します。その気密性、ちょっと笑えますね。
 何はともあれ無事到着、1日目は移動のみ。K建設の宿舎へ一泊です。



◆硫黄島の歴史(自衛隊パンフ「硫黄島案内」より抜粋)

 1543年(天分12年)スペイン人により発見され、その後イギリスのキャプテン・クックの部下ゴアが太平洋探検時(1784年)にこの島を認め、サルファーアイランド(硫黄島)と命名。
 1891年(明治24年)日本領土に編入、硫黄島と命名し小笠原庁管轄とした。
 1876年(明治9年)には71人、1943年(昭和18年)には192戸1018人が住んでいて、最初は漁業主体であった、その後、硫黄・燐などの採鉱、サトウキビ、薬用植物などが栽培され、これらを扱う会社「硫黄島産業KK」も設立された。


 昭和20年2月16日から3日間、米海・空軍による猛烈な艦砲射撃及び豪雨のような爆撃が加えられ、同2月19日B-23の大編隊による空襲と、沖に集結した大艦隊による一斉射撃が全島を覆い、その間130隻の上陸用舟艇が海岸に一斉に突進し、0900(午前9:00かと)ごろ第一波が南海岸に上陸した。
 硫黄島守備隊は、小笠原兵団長栗林中将の指揮の下、見事な持久戦を展開し、米軍上陸部隊に多大な損害を与えたが、そのほとんどは玉砕し、同3月26日、日本軍の組織的な戦闘は終わった。

日本軍  戦死者 19,900人 戦傷者 1,033人(生還者)
米 軍  戦死者  6,821人 戦傷者 21,865人



面積 22㎢   品川区・綾瀬市とほぼ同じ
平均気温 23.6℃(当時)
火山活動が活発らしく、年間「30㎝」の隆起!!(当時)





 空港へ迎えに来てくれた人に連れられ、今日の宿に到着。いい天気でよかったわー。

K建設 事務所

 空港から南西へ少し行った所にK建設の事務所があります。
 向かって左が事務所、右が宿舎になっています。

不発弾処理係 表看板

 事務所の裏手に不発弾の処理をする係がありまして、そこの前にシンボルとして置いてあります。
 ここでどこまで処理するのかはわかりません、多分、最終的には隊で処理でしょうね、やっぱり。

 これは…対空用の機関銃でしょうか、高射砲とかいうやつかしら?詳しくなくてすいません。

宿舎外観(北側)

事務所の方はまだ綺麗なのですが、宿舎は海側と言う事もありますがボロになっています。天気が荒れると窓ガラスは割れてしまうので、南側の窓はほぼベニヤがはまっています。

事務所前駐車場から南西方向を望む。

 夕方の風景、左の山が「擂鉢山(スリバチヤマ)」ですね。擂鉢をひっくり返した格好をしてます。
 夜の娯楽は無いので(早い時間は焼き鳥屋が開いています、たしか18時くらいまで。)、ビール飲んで、食事して寝るだけです。
 夜が更けると、真っ暗で星しか見えません。

宿舎内

 汚~い!ですが結構楽しい4人部屋。
 手前右を借りたと記憶してます。飲んで寝るだけ~
 窓はやっはりベニヤ。

宿舎内

 島内は物資も水も節約です。が、部屋のエアコンだけは贅沢に使い放題、室内を寒~くしておかないと、ムカデとサソリが入ってきてしまうらしい。
 筆者はデブなのでたいへん助かりました。

一日目終了!



翌朝もいい天気、本土とちがって7:30作業開始です。お決まりのラジオ体操やって、さあ準備。

朝の風景

 朝は朝で趣が違いますね。左下の猫じゃらしは本土と形が違います。
 ノラ猫もいますが、顔の形がやっぱり違いますね、なんというか「しょうゆ顔」古っ!
 あの重機どうやって持ってきたのかしら、港がないのに。バラしたのかな?

朝の風景

 やっぱり南国、ハイビスカス。

やっと作業の始まりです。
貼り付け終了

 日照調整にシルバーのフィルム。今はなき3Mの「P-18」と言う品番でした。

作業終了

 作業現場からの夕陽。二日目終了。

 二日目の夜はK建設の企画でバーベキュー、ところがチョッとお酒が入るとすぐ喧嘩が始まちゃいます。みんないい人なんですが、チョッと短気な方もいらっしゃいます、本土ではあまり馴染めないのかも(笑)。まあ、どこでも自分の居場所が定まれば良いですよね。



 三日目は帰りの飛行機まで2時間くらいの余裕がありまして、同室の方が島を案内してくれました、有難うございました。
 2t位のトラックの座席に3人、私が荷台に乗りまして出発です。時間的に全島を廻るのは無理との事。
釜岩

 西側の真ん中辺り、奥に見えるのは「釜岩」。
 と同室の方々。

西海岸の沈船群

 戦後、米軍が港を作ろうとして、基礎の代わりに沈めた船たち。
 当時は海中に沈んでいたそうですが、年間30㎝も隆起してるので現在は露出しています。

 私、ヒドイ格好で失礼。

平和記念墓地公園

 硫黄島攻防戦時、大抵の島民は疎開したそうですが、約130人の方は軍に徴用されました。
 内82名の方が戦死なさいました。こちらはその82名の方が祭られています。

北飛行場跡

 今は使われていない「北飛行場」。
 飛行機の残骸らしき物、ほったらかしになっていました。

監獄岩

 北飛行場の北西の海側、パイナップルとか普通に自生してます。
 見にくいですが奥に見えるのは「監獄岩」…ってまさに、ジェイルハウスロックですね。プレスリ~



 この後、擂鉢山へ登りました…360度の大パノラマですし島も見渡せますから素晴らしい景色でした、が、頂上から米軍が上陸した南海岸を見下ろしながら「ここで25000人亡くなったんだ」と考えると、観光気分ではしゃいで写真など撮って良いものかという思いが強くなりシャッターを押せなくなってしまいました。
 南海岸の近くや地下壕の入口も時間の許す限り廻りました、こちらも写真は撮る気にならず…。
 重たーい気分でした。現場へ行くと、遊んでいて良い場所ではないのだ、という思いが「湧いてくる」感じです…うまく表現できず申し訳ありません。
 戦争はもう止めましょうね…。


 島の南半分くらいを廻ったところでタイムアップ。帰路につきました。



資料館

 航空戦隊司令部の跡が資料館となっています。
 島内で発見された旧軍の遺品が展示されています。

 これで最後の写真となります。


 余談ですが「島唐辛子」ってのがありまして、ものっ~すごい辛いのです。比べた訳ではないのですが、ハバネロなんか目じゃないのでは…。大きさは約20ミリと小さく、私は中華鍋いっぱいの麻婆豆腐を作るのに一本の半分で十分でした。手に入る方はどうぞお試しを。

 以上、硫黄島フィルム工事終了です。1998年の事ですので、記憶ちがいで間違ったことを書いていたらごめんなさい。何かお気付きの方は教えて頂けると助かります。

 繰り返しになりますが、有名ポイントの綺麗な画像はWeb上にありますし、「グーグル・アース」で島一周できますので、物足りない方はそちらをどうぞ。

 長々お付き合い頂きましてありがとうございました。



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有限会社エフテック

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一級ガラスフィルム施工技能士(国家資格)在籍
防犯フィルム施工技能者(国家資格)
住友3M Scotchtint Auto Film フィルムマスター
横須賀法人会 会員
神奈川土建組合 組合員

住友3M,リンテック,IKC,サンゲツ,リケンテクノス,マディコ,インフレッド,ユタカ,リリカラ等各メーカー取扱い